今日は、明日の準備が慌ただしく、何時もとは違った時間に帰宅。
出張からの帰阪と言う事も有り、帰宅時間が異なった訳だが、
茶の間のテレビで、「志村けん」のコントにチャンネルが合わせられていた。
晩酌をしながら、コントを横目にハシを口に運ぶと、昔懐かしい「ドリフターズ」の焼き直し的な内容の「コント」が間に挟まれていた。
若い女優を相手にする分には何とも思わなかったが、「研ナオコ」との絡みを見ていると、何だか志村けんは、「孤独なんかなぁ」等と思ったのでありました。
以下、勝手な自己推察です。想像も入ります。
彼の演出するコントには、加藤茶を始めとする、往年の仲間が登場しない。
かと言って、コントの内容の何割かは、「ドリフ」からリスペクトしている焼き直しが散見される。
これらの事象を捉え、志村氏が、「ドリフ」のイズムを継承しながらお茶の間へ笑いを提供する使命を背負っているが、加藤茶や中本工事等と方向性が違う(バンドの音楽性が異なって解散に例える)。
この様な背景が志村けんのジレンマで一人呪縛に縛られている様な悲哀を感じたのです。
幸いなことに、志村けんの脇を固める「吉 幾三」や「研ナオコ」「ダチョウ倶楽部」等の面々が、その宿命を側面からサポートする(あくまでも勝手な推測ですよ!)
私も、一度目の勤務先が傾いた際に蜘蛛の子を散らすように「志の無い連中」は逃げ出し。
二度目の現在も、足元が緊張感にあふれているのですが、その一貫した「イズム」と言う物を継承している「自負」が有り、それをサポートしてくれる(勝手に思っている)仲間(少数)の現環境下がシンクロして・・・{どうでもいい話}
仮に志村氏が、そんな哲学を持っていなっかったとしたら、「いかりや」と言うカリスマが他界した時に、その背中の荷物は担ぐはずもなかったし、加藤や中本氏にゆだねていたと思います。
しかし、それらの担ぎ方が志村から見ると「中途半端」に写ったか、その過大な責任感が受け止めきれないと彼は見切ったから「孤軍奮闘」して現在に至るのではないかと思って見ておりました。
「吉 幾三」と「研 ナオコ」のその心意気を感じろと言うサポートにまさに志村さんは意気に感じているから頼り続け使い続けているのであろうと思い。
差しのコントを見ると「お互いに深いところで信用しあった」←これで受けなかったら仕方ないよ!
と言う想いを共有し合っているんだろうなぁなんて・・・
テーマが「お笑い」なので、そんな哲学は評価する人は少ないかとは思いますが、今日だけは、抒情的になっているのかして、そんな悲哀を感じるコントを志村氏からの演技で伝わって来たので雑感として記述してみました。